強がりはマイナスの自己暗示

思い込みって自分を苦しめることもあれば、

逆に大きな力になることもあります。

 

アスリートの人たちの中には

アファーメーション(自己宣言)というものを使って

自己暗示によって、

メンタルを整えるという話も聞いたことがあります。

 

私も高校時代に部活でアファーメーションはやっていました。

 

キャプテンの思いつきで始めたわけですがね(笑)

 モチベーションは高まっていた気がします。

 

 

 そんな思い込みについて

最近、ふと思ったのですが、

 

「自分は大丈夫だ。できる」

 

という言い方にも種類があるのです。

 

 

一つは上記の自己暗示。

 

根拠のある自分への信頼がある程度存在するものです。

 

「自分はあれほど努力しているから大丈夫」

 

というのが近いですかね。

 

 

もう一つは単なる強がり。

 

本当は能力がないのにもかかわらず、

そういう自分を認めたくないから

 

「自分は大丈夫なはずだ」

 

となんとか自分に言い聞かせようとしている状態です。

 

 

 

これに気がついたとき、

まず始めにしなければならないことは

 

己の力量を客観的に見定めること

 

だと思いました。

 

 

 

 そうはいっても、

いくら思い込んでいようがいまいが、

 

必要最低限の能力が必要であることは明白ですよね。

 

 

1キロ走っただけでバテてしまうような人が

 

「俺はフルマラソン完走できる。できる!」

 

なんて1万回言ったところで、

 

たとえ本当にそう思い込めたとしても

実際は無理なわけじゃないですか。

 

 

自己暗示が効果を発揮するのは、

必要最低限の実力があってこそというのは、

 

例えば

 

自分も周囲も文句の言いようのない努力をした人が、

それでもまだ自信を持つことができずに

不安と戦っている時

自己暗示で精神状態を穏やかにすること、などです。

 

 

一方で、今の自分に実力がなくても

 

「しかるべき努力を経れば大丈夫に違いない」

 

という自己暗示も存在するでしょう。

 

 

肝心なのは能力があるかないかではなく、

 

自分の能力を客観的に把握して、

それを受け入れることです。

 

 

 

実力がないのに

それを認めずにただ虚勢を張る強がりをし続けていると、

 

自分を把握できていないことが原因となって

誤った道へ突き進んでしまうことすらあるのでしょう。

 

 

私もこれまで無駄な強がりをしてきた自覚があります。

 

今考えると、どうして自分の弱さを素直に認めなかったのか。

認めて愚直に努力していたら、今はもっと強くなれていたのではないか。

 

など、様々な考えが浮かび上がってきます。

 

 

でもそんな自分の現状を冷静に見つめて、

 

「ここからもっと自分を高めることは可能だ」

 

と信じていきたいなあ。

 

 

と、高速バスで外の景色を眺めながら考えました。

 

 

 

 

 

 

 

時間があればいいと思ってる?

時間がない、という言葉はよく使われます。

 

時間があればもっと行動の量も質も上がるのに…

という気持ちからくる言葉なのでしょう。

 

確かに、時間がないことでどん詰まりになってしまうことはありえます。

 

期限に間に合わず、どうしようもないことって起こってしまうことはあります。

 

 

しかし、時間の有無だけが原因なのでしょうか。

 

果たして時間があれば全てが解決するのでしょうか。

 

無限の時間があれば、全てのタスクや問題を淡々とこなすことができるのでしょうか。

 

私はそうは思っていません。

 

むしろ、時間がありすぎることも停滞の一因となりうるのです。

 

 

思い浮かびやすい例は夏休みの宿題でしょうか。

 

1ヶ月近くある夏休み。

すぐに手を付けなくたって大丈夫さ。

なんたって、時間はまだまだあるしね。

 

なーんて言って遊び呆けていると、いつの間にか始業式間近。

夏休み最終日に泣きをみることになります。

 

余裕がありすぎることで、行動できないんですね。

 

 

 緊急性がないと動けない人って一定数存在します(私も)。

 

夏休みの宿題はさておいて、

あとであとで、と言っているといつの間にかどうしようもない事態に…

なんて経験したことありませんか。

 

本当は大事なことなのに、

今はまだいいやと思ってしまうことがあるのではないでしょうか。 

 

望ましいことではありませんよね。

 

そんなこと私はわかってます。

あなたも本当はわかっているはずです。

 

でも…

っていう話なんですよね。

 

我々人間はそこまで強い意志をもっているわけではないですから、

この問題に対する唯一絶対の処方箋はないです。

 

ですが一つの案として、

わざとやることを増やして忙しくなってみる、

というのはどうでしょうか。

 

時間が有り余ってもどうせやらないのですから、

あえて忙しくして自分を追い込むことで

「時間あるから後でいいや」から

「今この時間でやらなきゃまずい」に

意識を変えることが可能です。

 

時間があるのに動けない人は試してみる価値があるのではないでしょうか。

 

 

期待する奴が悪い

私たちは他人や環境など、

外部に期待してしまうことが多いものです。

 

「これくらい許してくれるだろう」

「あの人ならここまでやってくれるはず」

「自分がこんなにやったのだから、みんなは最低でもこれくらいやらないと」

 

このような期待をしてしまうと

その期待が裏切られた時にがっかりして、

中には怒り出す人もいます。

 

期待してしまう人の言い分もわかるのですが、

客観的にみたら迷惑な話とも言えます。

 

自分で勝手に都合のいい思い込みをした上、

その思惑通りにいかないと機嫌を損ねるのですから。

 

 

そんなこと言ってる私も思わず期待してしまうことはあります。

 

今は流石に不機嫌むき出しにしないです(と思ってます)が、

昔は周りの人に悪いことをしましたね…

 

このようなことが起こってしまうのは、

不用意に期待してしまうことが原因です。

 

そこで、願望と期待を切り離すということを提案します。

 

期待とは’’将来ある出来事が起こるのをあてにして待つ’’という意味ですが

実質、その人にとっては当たり前の未来に近いものです。

 

「こうなって当然でしょ」というような。

 

一方、願望はあくまで自分の欲求。

自分が勝手に待ち望んでいる未来です。

 

「こうなったらいいなあ」という感じですね。

 

 

期待をよく抱いてしまう人の多くは

願望をいつの間にか期待にすり替えています。

 

自分にとって願望にすぎないような都合のいい未来が、

(自分の中で)起こって当たり前の未来になってしまうのです。

 

だからこそ、期待と願望を区別することが必要になってきます。

 

「こうなって当然でしょ」という期待は

実は、

「こうなればいいのに」という自分の願望ということもあって、

他人に強要するのはお門違いです。

 

期待だったら裏切られた時にぶちぎれるようなことも、

願望だったら、まあ仕方ないよねと割り切りやすいのではないでしょうか。

 

 

そもそも、自分も思い通りに動かせないのに

他人に自分の都合を押し付けるのは無理な話じゃないですか。

 

不要な感情の悪化は避けて、穏やかに生活したいものですね。

 

 

 

 

甘える勇気 頼るというスキル

公の場でもプライベートでも、

真面目な人ほど1人で多くを抱え込んでしまい、

悩み続け、苦しんでしまう傾向があります。

 

「そんなことくらい、言ってくれれば手伝ったのに…」

と思うようなことを他人に頼めないのも、

他の人に迷惑だから、という気持ち故なのでしょうけど。

 

ですが、

せっかく頑張ろうという思いを持っているのに

1人で戦い続けた結果倒れてしまうなんてもったいのないことです。

 

それに

倒れてしまったことで周囲に悪影響を及ぼすのなら、

もったいないどころか、迷惑な話です。

 

 

なによりもまず、一番大事なことは

「自分1人の力で全てを完璧に成し遂げることは不可能だ」

という前向きな諦めではないでしょうか。

 

 

なんだよ、ネガティブなこと言いやがって、

と思われるかもしれません。

 

考えてみてください。

 

私たち一人一人を見てみれば、

知らないことはたくさんあります。

 

苦手なこともあるでしょう。

 

肉体的な限界も存在します。

 

無理じゃないですか。1人で全部やるのって。

特に抱えている問題が大きかったり、多かったりする時は。

 

ですから、

ソクラテスの「無知の知」のように

自分の力の限界を認めて、

素直に周囲に頼った方が効率が良いはずです。

 

 

私も腱鞘炎なので、重いものを運ぶ時などは周囲に頼ってます。

もちろん、最初は頼りにくかったですけどね。

 

周囲も嫌な顔せず引き受けてくれて、

「じゃあ〇〇手伝ってよ」とか言ってくれます。

 

 

もちろん他人に頼りっぱなし、依存してしまうのは

お互いにとってもよくありません。

 

純粋に未熟すぎて周囲に頼る人もいるとは思いますが、

自分のキャパシティを見極めて

その分野で自分より上にいる人に頼ることも

一種のスキルと言えます。

 

だってその方が効率も質も良いのですから。

 

基本的に自立している人同士が

弱点を補うため、相乗効果を生むために

頼りあったり、甘えあったりする。

 

これって理想的な人間関係だと思いませんか?

 

甘え、頼ることって全く悪いことでも後ろめたいことでもありません。

 

自分と他人の人生を豊かにしますから。

 

 

 甘える勇気をもって、他の人たちと上手に共生したいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2種類のマルチタスク

’’複数のタスクを同時に処理する’’

 

これはマルチタスクの一般的な定義です。

 

本来はコンピュータの用語だったらしいのですが、

現在では人間に対しても使うことが多いですね。

 

そして、仕事や情報が多く、スピードが求められる現代社会では

マルチタスクができることを有能である特徴の一つともしています。

 

そんなマルチタスクですが、

実はマルチタスクを行うとですね……

 

という記事の展開はしません。

 

まあ、マルチタスクによって現代人は集中力が衰えている、

なんて記事をたまに見かけますけど。

 

今回、気がついたことは

マルチタスクはその目的によって2つに分類できる」

ということです。

 

結論からいいますと

 

マルチタスクで完結。楽をするため。

マルチタスクはプラスα。余力で上乗せ。

 

の2種類に分類されるわけです。

 

さて、どういうことだと思いますか?

もしかしてこれだけでわかってしまいました?

 

 

 

一つ例を挙げましょう。

 

健康のために体作りをしている人が二人います。

 

Aさんは体を鍛えるために、おもりを手首と足首につけて生活しています。

日常生活で負荷をかけているので、特に運動はしていません。

 

BさんもAさんと同じように、おもりを手首と足首につけて生活しています。

さらに、週に2、3回はジムに行って筋トレも行います。

 

二人の違いがわかりますか?

 

表現を変えると、

Aさんの体作りはマルチタスク(おもり)で終了しているのに対し、

Bさんのマルチタスク(おもり)は彼が行っている体作りの一つでしかないのです。

 

どっちが丈夫な体を手に入れるか、と聞かれたら

「ジムで怪我するかもしれないじゃないか!」なんて言っちゃう

ひねくれ者でない限り、

Bさんと答えますよね。

 

マルチタスクはそもそも一つの作業をしている時に余裕が残っているから、

別のことも同時にこなす、ということです。

 

確かに一見効率が良いですが、

筋トレだけでなく仕事や勉学においても、

時間短縮ではなく質の高い結果を求めるならば

マルチタスク的な処理よりも一点集中で取り組んだ方が実際は効率が良い、

ということはよく言われていることです。

 

結局は一つに集中して行うことがベストなのですが、

楽をしたいからマルチタスクの中で処理してしまうのか、

それとも

それだけに集中する時間も設けているけれど

余力があるからマルチタスクでも取り組むのか。

 

2種類あります。

 

もちろん、前者が絶対に悪いことだとはいいません。

楽をするために同時処理することも時には必要でしょう。

 

ですが、結果を求めるなら

マルチタスクはあくまでおまけです。

余ったリソースで少しだけプラスアルファするだけなのです。

 

自分が時短を目指しているのか、より良い結果を求めているのかを見極めて、

目的に応じたマルチタスクをしていければいいですね。

 

 

 

点滅する信号

夜になると

赤や黄が点滅するようになる信号ってありますよね。

 

あれって

なんのために点滅させてるのかな?と

思っていたのですが、

調べてみたところ

交通量が少ない場合に

赤信号でわざわざ止まっているのが

非効率的だからだそうですね。

 

答えを知ってしまえば

「いや、そりゃあその通りだよな…」

とは思うのですが、

電気使用量の削減が目的でもあるんじゃないかって

真面目に考えていました。

 

その辺は判明させられなかったのですが…

 

実際電気ってどれくらい使ってるんでしょうか?

これもあとで調べてみようと思います。

 

 

という本当にどうでもいいことを疑問に思ったのは、

駅のホームでぼーっとしていた時に

ふと、点滅している信号が目に入ったからなんです。

 

今まで何度も夜にだけ点滅している信号を見てきましたが、

あらためてそれに疑問が湧いたのは初めてでした。

 

 

点滅する信号みたいに

身近にあるのにその理由とか意義、メカニズムを理解していないことは

たくさんあるのでしょうね。

 

わかれば面白いことが多いのですが、

疑問に思うこと自体に注意が必要ですから

なかなか難しいものです。

 

身の回りには

知らなくても生きていけることも多いのでしょうが、

知ることで新しいヒントやアイデアが生まれることだってあります。

 

もっと色々なことに敏感になりたいと思った次第です。

 

もしかしたら、

自分が既に知っていると思っていたことからも

何か新しいものをしぼりだせるかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて、伸びる

何かに取り組むと、

私たちは壁にぶつかることがあります。

 

勉学においては

物事を覚えられない時や

意味を理解できない時、

 

スポーツにおいては

新しい動作を覚える時や

苦手な動きを克服する時、

 

読書だと

ある一文の意味が全く分からないとき、

 

ゲームになると

相手のレベルが高すぎて倒せない時や

自分の指と目の限界が見えてきた時、

 

いろいろな事柄で壁にぶち当たります。

 

壁にぶち当たると

いっそのこと投げ出したり、

諦めたりして楽になろうとしてしまいますよね。

 

それでも壁にぶつかった時、

自分ができない状態や分からない状態に

どこまで耐えられるかが

壁を超えられるかどうかを分ける最重要事項です。

 

ゲームで例えるとわかりやすいと思います。

 

例えば……そうですね、格闘ゲームなんかどうでしょう。

 

有名なのはストリートファイターとかスマブラとかですね。

 

相手のレベルを高くしていくと

だんだん勝つのが難しくなっていきます。

 

ですが、いつまでも自分が楽々勝てるレベルでプレイしている限り、

それ以上のレベルで通用する腕前にはなりません。

 

自分がギリギリ勝てたり、勝てなかったりするレベルの相手と戦い続けることで、

自分の苦手が露わになったり、新たな戦法を習得できたりするのです。

 

もちろん、簡単なレベルで基礎を固めることも大切でしょう。

 

しかし、私が強調したいことは

壁が立ちはだかった時、

逃げずに向き合い続けることが大切なのだということです。

 

たとえレベルの高い相手と戦って勝てなくとも、

レベルを下げずに挑戦し続けることで

少しずつ相手のパターンや隙を発見して、

攻撃の機会を増やすことができるはずです。

 

勉強とかスポーツも

全く同じとは言いませんが、

同じような姿勢が必要ではないでしょうか。

 

分からない問題を逃げずに考え、

それでも分からなければ資料などでヒントを得たり、

答えがあるのならば答えを熟読してみたり、

 

慣れないショットを打つ動きをイメージしたり、

何度も素振りをしてみたり……

 

 

既に出来ることばかり行うのではなく、

出来ないことにも挑戦することで

自分の経験値をより高められるのではないでしょうか。

 

私も、

やり慣れていることや限界より少し簡単なことを

思わず選んでしまうことがあるので、

壁と向き合うことで停滞を防ぎたいですね。