自信が大事というけれど

自分を信じること

私たちはこれを「自信」と呼びます。

 

自信がなければ

新しいことにチャレンジすることは

難しいですし、

自分の好きな生き方を選ぶことも

出来ませんよね。

 

自信は大切なものです。

 

一方で、

私たちがいつも

正しい知識を持っていて、

正しい思考を行い、

正しい行動を取っているとは限りません。

 

自信が過剰になってしまうと

誤った方向へ突き進む危険もあります。

 

自信は必要。

だけれど時にそれが仇となる。

 

難しい問題ですよね。

一体どうすれば良いのでしょうか。

 

 

私はこう考えています。

 

アクションを起こすときは自分を信じる。

冷静に分析する必要があるときは自分すらも疑う。

 

何か行動する時に自信がないようでは

思い切って動き出すことがなかなか出来ません。

それに、おろおろ動いていたほうが

上手くいかないことが多いものです。

 

逆に、しっかり分析しなければならない時に

自分を信用しすぎては、

客観性を失ってしまい、

間違った答えを導き出していることに

気がつくことが出来ません。

 

また、

間違ってもアクセルとブレーキを

同時に踏むようなことをしては

いけません。

 

それでは中途半端な結果に終わってしまいます。

 

アクセルとブレーキは別々に踏むからこそ意味がありますよね。

 

私は

自意識過剰の勘違い野郎や

あらゆるものを怖がる臆病者に

ならないように日々気をつけていますよ。

 

自信というものを賢く扱いたいですね。

 

 

ゴミの分別くらい

公共のゴミ箱の中身って見たことありますか?

 

別に頭を突っ込んで覗くとか

そういう話ではないのですが、

自分がゴミを捨てる時に

その中身ってチラっとでも

目に入りませんか?

 

何でこういう話をいきなりするかと言いますとね、

先日、公共のゴミ箱をのゴミを

清掃員のお兄さんが回収していたのを見かけたんです。

 

ちょうど近くで食堂の列に並んでいたので

私はそれをチラチラと見ていました。

 

ゴミ箱の横についている扉を開いて、

ゴミ袋を取り出すと、その中には

大量の燃えるゴミが入っています。

 

すると、清掃員のお兄さんは

無表情のまま、ゆっくりとゴミ袋の中に

腕を突っ込み始めたんです。

 

どうしたのかな、と見ていたら、

何かを取り出したようです。

 

それはなんとペットボトルとアルミ缶でした。

 

それも合わせて5、6本です。

 

それでもお兄さんは嫌な顔せずに

あらかじめ用意していた資源ごみ用の袋

にそれらをいれ、新しい袋を設置して

どこかに行ってしまいました。

 

ああいった場面に遭遇すると悲しくなります。

 

何でゴミの分別もしないんだろう。

別々のゴミ箱に入れるだけなのに…

 

ゴミの分別以外にもありますよね、

多少手間はかかるけれども、

みんなで快適に生活するためにはかかせないこと。

 

トイレをきれいに使うこと。

開けた扉を閉めること。

席を立つ時に椅子をしまうこと。

 

他にもまだまだありますが、

ささいなことに気をつけるだけで

多くの人が気分良く、楽に

過ごすことができますよね。

 

確かに短期的に考えた場合、

そんなささいな気配りを無視した方が

労力は使いませんが、

長期的に考えた場合、

そういった手間を惜しまずに、

むしろ身の周りの人たちにも教えてあげれば、

自分の周りの人たちだけでも感化することは出来るのです。

 

後者の方が、結果的に

自分も快適に生活できるとおもいませんか?

 

 

私は完璧な気配りのできる人間ではないですが

そんな生き方を目指しています。

 

 

 

 

 

 

 

今日という日はもう来ない

今日という日もそろそろ終わりですね。

 

布団に入って眠れば

また同じような朝がやってくる…

 

と私たちは思いがちです。

 

 

ですが、よくよく考えてみると

同じような日なんてないわけですし、

今日という日を再び経験できるなんてのは

未来永劫ありえないことです。

 

何も考えずに過ごしていると

そんなことってわざわざ意識しませんよね。

 

しかし、

今日を大切にして生きることができれば

それは素敵なことだと思います。

 

そんな生き方をしたいですし、

そんな生き方を提案したい。

 

そういう視点を持つと

時間の過ごし方が変わってきますよね。

 

 

今これは必要なんだろうか…

今やっておいたほうが良いことはなんだろう…

これは今日しかできないな…

 

 

かの有名なインド独立の父

マハトマ・ガンディーの言葉です。

 

毎晩眠りにつくたびに、私は死ぬ。そして翌朝目をさますとき、生まれ変わる

 

これを読むと、

同じ日々が続くなんて思えません。

 

常にこの意識を持つことは簡単ではないと思いますが、

だからこそ彼はインドに大きな影響を与えたのでしょうね。

 

 

時は無尽蔵にあるように思えるけれど、

過ぎてしまったかつての時を考えると

あっという間に感じます。

 

だからこそ

なんとなく生きるのは

もったいないと思うのです。

 

まずは今日という日を大切にして、

充実した日々を送りたいですね。 

 

 

 

 

 

無計画に価値はない、むしろマイナス

何か目標を持っていますか?

 

仕事でも

学業でも

スポーツでも

人間関係でも

なんらかのスキル習得でも

様々な分野において

理想や目標を持っているのではないでしょうか。

 

目標に向かって情熱を注げているのなら

それは素晴らしいことだと思います。

 

しかし、目標達成には

情熱も大切ですが、

計画性を持って

その情熱を運用していく意識が大切です。

 

 

少し、私の昔話をさせてください。

 

私は中学、高校とバドミントン部に所属していました。

 

バドミントンが面白くて続けていましたし、

やるからには大会で勝ちたいと思って

(進学校だったのですが)勉強よりもバドミントンに注力していました。

 

私は細身で力があまりなかったので

ラケットを振るスピードを上げるために

テニスラケットをテニス部の友人に譲ってもらい

毎晩それで素振りをしていました。

 

真面目なスポーツ少年ですよね(笑)

 

ですが、テニスラケットを振り始めて二ヶ月経った頃から

右手首に異変を感じ始めます。

 

それからは手首を休めながら練習に励んでいたのですが、

大事な大会中に限界が来てしまいました。

 

症状は腱鞘炎に近いものです。

 

それから2週間は箸もペンもまともに持つことが出来ず、

バドミントンどころではありません。

 

少しづつ回復はしましたが

手首は日常的に使うため、負担がかかるばかり。

 

挙げ句の果てには

日常動作で右手を庇いすぎた左手まで

同じような症状になってしまいました。

 

これは高2の秋の話ですが

今も完治していません。

 

大学受験では

周りの人たちとは全く違うものと

戦いました。

 

症状がひどい時は

今でも箸やペンを扱うのがつらいですが

一生治らないと思っています。

 

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バドミントンに注いだ情熱は間違っていませんでした。

 

しかし、無計画にハードなトレーニングを続けたために

私は今でもその怪我を負うことになっています。

 

ただがむしゃらにやれば目標を達成できるわけではありません。

 

目標達成のために必要な”正しい”努力というものが存在しますし、

何も考えずにがむしゃらにやっても私のように身を滅ぼします。

 

適切な計画性と情熱が伴って

初めて前へ進めるのです。

 

怪我を通して大切なことを学びましたが、

代償はとても大きかったですね…

 

あなたも何かに向かって取り組んでいるのなら

一度立ち止まって見つめなおしてみてください。

 

自分の中に計画性が存在するのか

自分がやっていることは正しい(可能性は高い)のか。

 

失敗は大切なことですが

事前に防げる失敗をわざわざする必要はありませんよね。

 

 

 

あなたにも参考にしていただければ幸いです。

 

 

 

 

 

個人差があるんだって

自分にとって良かったものが

他人にとってそうでなかったり、

逆に、

他人にとって良かったものが

自分にとっては大したことがなかったり、

自分と他人との違いを感じることって

ありますよね。

 

人間同士のDNA構造の違いは

たったの0.2%くらいと言われていますが、

それでも人は見た目も中身も

それぞれに異なっています。

 

これを踏まえて、

考えかたや物の見方、

得意不得意、好き嫌い、

合う合わないなど、

これら全てが人それぞれだと

認識するだけで

日々の生活が好転すると思うのです。

 

もちろん、

多くの人が共感できる物事というものも

確かに存在します。

 

また、

自分のこだわりを追求して

芸術的な功績を残す方もいらっしゃいます。

 

ですが、

こだわる必要の少ない

日常のささいな部分にまで

自分と同じであることを求めると

衝突が起きてしまう確率が高まりますし、

不必要なことまで他人と同じであろうとすると

それで自分の能力を十分に発揮できなくなることだって

ありえます。

 

自分なりのやり方については、

さすがに最初から

自分に合うものや合わないものを

把握することは難しいので、

初期の段階はいろいろな人を見て、

様々なスタイルをとるのもアリでしょう。

 

そこから、自分の性質に最もマッチしたやり方を見出せれば

後はしめたものですね。

 

ですが、それを人に強要してはいけません。

その人にはその人のやり方が確立しているかもしれないのです。

 

 

余談ですが、

私は音楽を聞きながら勉強をした方が

はかどるタイプでした。

 

ながら勉強はダメとよく言われるものですが、

私の場合は音楽を聴いている方がやる気が起きて、

すぐに勉強に取りかかれます。

 

そして、勉強に集中していくうちに

耳に入ってくる音は脳で処理されなくなるのです。

 

もちろん、音楽に集中しながら勉強にも集中することは

難しいと思いますが、

音楽を上手く活用して勉強することは

私には合っていたようです。

 

 

みんながそれぞれ違うということを肝に銘じて、

自分にも他人にも向き合いたいですね。

 

 

 

 

全てが情報戦

ネットやテレビ、ラジオなど

私たちは様々な媒体を通して

情報を取り入れますよね。

 

上記のような媒体では

ほとんどの情報を無料で

取り入れることができます。

(通信料とかはかかりますけど)

 

しかし、

本はお金がかかりますし、

最近ではネット上でも

情報が商品として販売されるケースが

多いですね。

 

ですが、

そんなことにお金を払うよりは

もっと目に見えるものにお金を使いたい

という方もいるかと思います。

 

確かに

お金を払わなくても

ある程度の情報は手に入れることができますが、

私は

お金を払ってでも必要な情報は

手に入れるべきと考えます。

 

孫子の兵法という書物をご存知ですか?

 

中国の最古にして最大の兵書と言われているのですが、

よく引用される言葉に

「己を知り、敵を知らば百戦危うからず」

(自分と相手について熟知していれば負けることはない)

があります。

 

それで、この本には

他にもこういう内容が書いています。

 

・勝つ見込みがあるときに戦うこと。

 

・土地に合わせた戦い方をすること。

 

・天候をよく把握すること。

 

・軍編成の法規や官職の押さえ方を熟知すること。 

 

他にもまだまだありますが、

今挙げたものは全て

正しい情報がなければ成り立ちませんよね。

 

それに

 

・スパイを巧みに用いて情報収集をすること

 

までもこの本では説かれています。

 

 

もちろん、

この兵法は戦争に特化したものですが、

今の時代だって

同じように情報が大事です。

 

人間関係においても

学習においても

仕事においても

正しい知識を持って、

かつ、正しい状況把握をできる人が

正しい行動を行うことで

より良い結果を残すのだと

私は考えています。

 

お金を払ってでも情報収集することを

無理にお勧めすることは出来ませんが、

日頃から様々な情報にアンテナを張り、

多面的な視野を持てるよう

務めることは

私たちの暮らしをよくするのではないでしょうか。

 

文句は心の中で叫べ

普段の生活の中で

文句を言いたくなることってありますよね。

 

文句って二種類あると思うんです。

 

まず

もっとこうした方がいいのに、とか

これは間違っているんじゃないか、とか

問題解決のための文句。

 

これはどちらかといえば改善案ともいえますよね。

そういった観点でみればこちらは大切なものです。

 

もう一つは

これは嫌だ、とか

あいつのやり方は気に食わない、とか

感情的な文句。

 

私の個人的な所感では

生活している中で聞く文句っというものは

後者が多いんですよね。

 

負の感情をむき出しにしていて

吐き捨てるような文句を聞くことの方が

割合的に多い気がします。

 

もちろん

私も後者のような文句を

言いたくなることもありますが、

 

自分が負の感情をあらわにしてしまったら

周りにいる人たちにも感情が影響してしまうことがわかっているので

言葉にせずに心の中にしまいます。

 

でも

言わなくてもいいのに

わざわざ文句をいう人って

いますよね。

 

嫌ならやらなければいいし、

気にくわないのならば

その気に入らない人やものから距離を置けばいいと

私は思いますよ。

 

「例え嫌でもやらなきゃいけないものはやらざるをえないし…」

 

という状況の場合もあるかと思いますけど、

私は

やらなければならないのなら文句垂れずに必死でやれよ

と思います。

 

今の社会では

命の懸かった選択というものがほとんどありませんよね。

 

だから、好きなようにすればいいとおもいます。

 

嫌なら、文句を言わなくても済む環境に身を置けばいいですし、

それでもそこにいる理由があるのなら文句を飲み込む必要があるわけです。

 

 

私は基本的に気分良く過ごしたいし、

そのために周囲の人にも気分良くあって欲しいのです。

 

だから、

たった一人でも

その調和を乱す行動を取るのは

本当に許せないわけです(笑)

 

私はこれの改善策として

そういった人物と距離をおくか、

もしくは

そういった人物を啓蒙する

必要があります。

 

いっそのこと

私のこの考え方自体を

改める必要が

あるかもしれません。

 

まあ、今の時点では

この考えは軸になっているので

そう簡単には曲げられませんけどね。

 

 

落ち着いて読み返すと

私の文句になってしまってますね(笑)

 

でも

これが私の基本方針であり

生き方のルールです。

 

改善策の提案としての文句は

どんどんいうべきです。

 

しかし

ただの感情の吐露としての

文句は周囲にぶつけたって

周囲の人たちの気分が悪くなるだけです。

 

もしかしたら、

周囲の人も

同じような文句を言い合う人たちかもしれませんが、

それにしたって

生産性という観点からみると

驚くほど無意味ですよね。

 

というか

むしろ生産性を落としている気すらします。

 

 

私たち人間は社会的動物ですから、

生産的な毎日を送るためにも、

快適な日々を過ごすためにも、

余計な文句は口に出さずに

生きたいものですね。