片手スマホは人生を喰らう

ポケモンGOのピークも過ぎたみたいですね。

 

レベルは順調に上がっていますか?

 

私はゼニガメだけ捕まえてやめました。

 

ゲームは中毒が怖くてあまりできないんです(笑)

 

さて、

ポケモンGOのリリース以降、

歩きスマホする人が目に見えて増えましたよね。

 

多くのメディアで、

歩きスマホの危険性や

科学技術(VR)の進歩や

ポケモンGOが流行る理由、

ポケモンGOが飽きやすい理由など

考察しているのを見かけます。

 

まあ、見かけるのですが、

ポケモンGOリリース後、

私がプレイする人々を見て改めて思ったのは

みんな片手でスマホを操作するなあ、

ということです。

 

「は? そんなの当たり前だろ」

と思われるかもしれません。

 

ですが、

私は左手でスマホを持ち、

右手の人差し指や中指で操作するようにしています。

 

もしくは両手で持って、

親指2本を使います。

 

なぜわざわざそんなことをしているのか、ですか?

 

 

それは、私が腱鞘炎だからです(笑)

 

親指一本で高速フリックとか死んでしまいます。

 

多分、同じ境遇の人はわかってくれると思いますよ。

 

それに、

もしあなたが腱鞘炎を患っていなかったとしても

両手でスマホを扱うことを強くお勧めします。

 

スマホはすっかり日常生活に浸透してきましたよね。

 

どこに行ってもスマホを使っている人がいます。

 

おそらく、このようなライフスタイルの変化によって、

腱鞘炎を患ってしまう人が増えるのではと危惧しています。

 

手を壊してしまってからじゃないとわからないのですが、

片手スマホは手に相当な負担をかけています。

 

腱鞘炎の原因は端的にいうと使いすぎですから、

休みなく片手でスマホをいじり続ける人は危ないのです。

 

もしあなたがスポーツや仕事などで手を酷使していれば、

なおさら両手での使用をお勧めします。

 

壊してしまってからでは遅いのです。

 

もし、そうなったら

好きなスポーツ、生きるための仕事ができなくなりますよ?

 

スマホで手が壊れたなんて馬鹿馬鹿しいじゃないですか。 

 

横着せずに、やってみてください。

 

私は腱鞘炎が現代病になった社会なんて見たくありませんから。

 

 

いつもと趣向が異なりますが、

たまにはこんな話もいいですかね(苦笑)

 

言い訳のススメ

言い訳ってどう思いますか?

 

よく言われるのが、

言い訳ばかりする奴は成長しない

ということです。

 

確かに物事の原因を他人のせいにしてしまう人が

進歩するのは難しいことかもしれません。

 

代表的な言い訳の一つに、

「もし〜たら」「もし〜れば」という

たられば、というものですね。

 

「もし、もっとお金があったら・・・」

「もっと頭がよければ・・・」

「もっといい時代に生まれていれば・・・」

などなど。

 

歴史にifは存在しない

という言葉すらもあります。

 

「そんなこと言ったって、歴史は変わんねえよ」

という意味だと私は勝手に解釈しているのですが。

 

 

しかし、待ってください。

 

たられば言葉、

私は悪いものだとは思いません。

 

いや、断言しましょう。

 

悪いものじゃないです。

 

 

もちろん、上述の3つ、

「もし、もっとお金があったら・・・」

「もっと頭がよければ・・・」

「もっといい時代に生まれていれば・・・」

は身も蓋もないものです。

 

何の意味もありませんし、

もはや願望じゃないですか。

 

 

いやいや、

たらればってそれだけじゃないよ

ということです。

 

「もしもあの時、確認を怠りさえしなければ・・・」

「シュートを打つ時にもっと重心を落としていたら・・・」

「自分があの時謝まっていたら・・・」

 

これってさっきの3つとは別物だということがわかりますか?

 

この2つは失敗した後に出てくる言葉で、

失敗の原因を的確に分析しています。

 

つまり、これ以降の失敗の確率が下がるということです。

 

 

もし、しくじった時に

何も考えることなく

「俺は言い訳なんてしないさ。ポジティブにもう一回やってみるぜっ!」

なーんて抜かしていたら、

それはただのおバカじゃないですか(苦笑)

 

また同じ間違いを犯すに違いありません。

 

「もしかして、〇〇すればもっと上手くいったのではないだろうか」

「あの時〇〇していれば、今回のような悪い事態にはならなかったかもしれない」

という心持ちでたられば言葉を用いることは、

決して悪いことではありません。

 

むしろ、奨励すべきことじゃないでしょうか。

 

歴史にifは存在しない、という言葉を

冒頭で紹介しましたが、

だからってifを考えることがタブーだとは言えません。

 

ifが無いってことは誰でもわかりますし、

もしあるのなら苦労しません。

 

ですが、

過去の人々の失敗を見て、

運命のいたずらとしか言えないような出来事を見て、

「もしもあのとき・・・」と

想いを馳せるのことで

得られる教訓はありますし、思考訓練にもなります。

 

 

一つ、歴史的な運命とも言える出来事を紹介しましょう。

 

あの、鎌倉時代に日本にも攻めてきた元。

最盛期にはアジアのほとんどを支配して、

ヨーロッパの国々との戦いにも勝利していました。

 

着実にヨーロッパへ軍を進めていた元軍なのですが、

ある時、その軍勢は帰って行きました。

 

なぜだと思いますか?

 

まあ、ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが。

 

当時、元のトップだったオゴタイが亡くなったことが大きな理由の一つです。

 

もし、オゴタイの寿命があと数か月長ければ、

ユーラシア全土が元の支配下になり、

今の社会はなかったかもしれません。

 

 

このように、

たらればで考えることで

私たちが学べることもあります。

 

他人のせいにする言い訳からは何も生まれませんが、

自分を見つめ直すための言い訳や、

想像から何かを見つけるためだとしたら、

ためらうことなく上手に使っていきたいですね。

 

 

 

 

バラしちゃダメ!

目標を立てた時、周りの人にそれを宣言するのが

いいことだという話を聞いたことはないですか?

 

周りの人に言ってしまったことで

自分を逃げられない状況に追い詰め、

それによって目標が達成されるという仕組みです。

 

あなたはこうやって目標達成をするタイプでしょうか。

 

だとしたら、すばらしいですね。

 

 

このメソッドは理にかなっていると思います。

 

一見すれば、ですが。

 

 

単刀直入にいうと、

残念なことに、私にこの手法は全く無意味でした。

 

友人に

「俺、〇〇したい」とか

「俺最近、〇〇してるんだよね」と

友人に言ったことが、

そのあとも長期的に続いた試しがありませんでした。

 

なんとなく、

「俺って人に話すと続かないんだよなあ」と

思いながら過ごしていたのですが、

ある時、一つの仮説が思いつきました。

 

いつも、自分の目標や目標のためにやっていることを話すと、

友人はそのことを素直に褒めてくれていました。

 

私は褒められたことで気を良くし、

まるで目標を達成したかのように満足してしまったのではないか。

 

そんな仮説です。

 

 

あなたもそんな体験はないでしょうか?

 

もちろん、目標を宣言することで頑張れる人もいるのでしょうけど。

 

ということで、私は以前の記事で

頭の中にある考えはどんどんシェアするといいましたが、

自分の目標だけはあまり見せずにいくつもりです。

 

もしかしたら、もっとうまい方法があるのかもしれませんね。

 

もしあるのなら、ぜひとも教えて下さい。

 

限界ってオイシイもの

限界などない、という言葉をよく見聞きします。

 

私たちは様々な可能性を抱えているから

こんなこと無理だと決めつけるのは

いけないことだ、

ということですね。

 

 

ただ、厳密に言えばその考えは誤りです。

 

限界は確かに存在します。

 

 

体の不自由な人にオリンピック選手のような

動きができるとは思えません。

 

年老いた人が昔のように

若い肉体を手に入れたいと願ってもそれは無理な話です。

 

 

もちろん、自分の努力次第で

解決できる問題は存在します。

 

 

ですが今、私は

"本当にどうにもならないこと" を

限界と定義しています。

 

では、限界があるひとはどうするべきなのか。

 

自分にはできないことに執着して、

いつまでもひがみ続けるのが

果たして正しい選択とは言えるのでしょうか。

 

 

私はそうは思いません。

 

 

制約がある人は

制約の中でできることを見出すべきです。

 

簡単に言えば、

「できることをやる」

というだけの話なのですが。

 

 

例えば、

私は高校のときにバドミントンで手を怪我しました。

 

障がいというほどでもないのですが、

右手を酷使すると痛みが伴うため、

普通の人と同じようには使えません。

 

それをかばって左手も壊れたのですが(苦笑)

 

そんなわけで、

今も両手をいたわる生活が続いています。

 

タイピングもせっかくブライドタッチを覚えたのにゆっくりです。

 

ですから、体が使えない分

私は読書をしたり、ネットで情報を集めたり、自分で色々考えたりと

頭を使うように意識してきました。

 

まだまだ未熟ですが、

私は体ではなく"脳"にフォーカスして生活しています。

 

このように、

無理に限界を突破しようとするのではなく、

むしろ限界という枠の中でできることを考えたほうが

選択肢が少ないために動きやすいこともあります。

 

人はたくさんの選択肢を前にすると

思考停止していまいますから。

 

 

現在、

自分に制約やどうにもならない限界があると感じている方は

いっそのことその制約の中で何ができるのか向き合ってみると

いつのまにか制約が武器になっているのかもしれません。

 

 

 

あ、ちなみに、私は

話し上手になりたいとも

思っています。

 

書いたり、タイプしたりするよりは

手を使いませんからね。

 

 

それそれ、隠さずに見せなよ

普通に生活しているだけでも、

いろいろなことに気がついたり、

たくさんのことを思いついたりしますよね。

 

まあ、くだらないことから

「これってすごいことなんじゃ!?」なんて

思ってしまうことまで

私たちの脳内に浮かび上がるわけですが、

その気づきやアイデア

周りの人とシェアしていますか?

 

時には

もったいぶって誰にも教えないなんてこと

ありませんか?

 

ちなみに、私は

もったいぶっているわけではないのですが、

「ま、大したことないよな」と

自分の中で消化するなど

自己完結してしまうこともよくあります(汗)

 

 

自分の考えていることが正しいかどうか

価値があるかどうかは

自分一人ではわかりません。

 

ですから、家族や友人、恋人など

身の回りの人にどんどん話してみることで

新たな気づきが生まれるのではないでしょうか。

 

例えば、

自分では「大発見だ!」「とんでもないアイデアだ!」なんて

思っていたことが、

実は大したことのないものかもしれません。

 

また、

自分ではくだらないと思っていたことが

他の人たちにとっては

とんでもなく素晴らしい発想であるかもしれません。

 

 

また、他人にシェアするメリットはこれだけではありません。

 

人に説明するということは

その前に自分の脳内で思考を整理している必要があります。

 

となると、

思考力とプレゼン力も磨かれるでしょう。

 

良く言われることですが、

インプットと同じかそれ以上にアウトプットが重要です。

 

アウトプットの一環として

思考のシェアはどうでしょうか。

 

同じように

身の回りの人の考えを聞くことでも

新たなことがわかるかもしれません。

 

私も、

このブログも使って

シェアして、シェアして、シェアしまくっていきますね。

 

 

あなたに選挙参加の資格はあるの?

明日は参議院選挙ですね。

 

私は諸事情で期日前投票を済ませてきました。

 

 

選挙って公約や、その時の社会情勢を考慮して

候補者を選ぶべきなのですが、

ぶっちゃけ、ポスターとか新聞を見ても

どの党も似たり寄ったりで

昔から特定の政党を支持している人以外は

結局、どこに投票すればいいのか

あまりわかりませんよね。

 

まあ、私もその一人だったのですが(汗)

 

日頃から政治や社会問題、国内と国外の経済情勢、そして外交問題など、

様々な情報をキャッチして、

なおかつそれらを上手に処理すれば

妥当な政党がわかるのかもしれません。

 

私はなるべくそういった情報を集めていたつもりでしたが、

実際のところは全くの無知でした。

 

おそらく、私と同じような方は他にもいらっしゃると思いますし、

下手すれば、普段のニュースを見ることすらない人も

いらっしゃるでしょう。

 

というか、

ほとんどの人は自分のことに精一杯で、

日頃から社会情勢に十分に目を向けられる時間が

とれていないのでは、

とも思います。

 

そしてついには

ポスターの雰囲気や顔で選ぶという結果に…

 

はたして、

私を含めて、多くの人が

選挙において適切な判断を下すことは出来るのでしょうか。

 

誰に投票するかを考えながら、そう感じました。

 

そうなると、

イギリスのEU離脱での国民投票

考えるべき点が見えてきます。

 

少なくとも個人的には

国民に聞いたのは間違いだったと思いますよ。

 

だって、例えば、

自分の国内の選挙についてすら、

私は無知だったのですから。

 

 

 

選挙が無意味とは言いません。

民主主義を成り立たせる上では

必要な事柄です。

(そもそも、これは民主主義が適切だという前提のもとなのですが…)

 

しかし、

民主主義であるのに、

その”民”が無知であっては

いわゆる衆愚政治となってしまいます。

 

 

大衆の反逆という著書の中で、

 

”すべての人を平等化する諸権利は憧れや理想から、

無意識の欲求や前提に変じてしまった。”

 

という一文があります。

 

史上かつてないほど自由で平等な現代社会は

決して当たり前のものではなく、

不断の努力によって獲得されるものだということも述べられています。

 

確かに、私たち民衆だけで出来ることには限界がありますが、

それでも、社会を私たちにとって快適なものにするために

最善を尽くすことが必要です。

 

過去には民主主義を勝ち取るために

命をかけていた人もいるのですから。

 

大げさな話かもしれませんが

私は今回の選挙を通じて

日頃の情報収集と勉強を怠らず、

自分なりに考え続けなければと

改めて決心しました。 

 

もちろん、社会情勢のことだけでなく

自分の仕事、勉強、人間関係など

生き方に関しても

その重要性はありますよね。

 

 

大きな気づきを与えてくれた選挙に感謝です。

 

 

 

 

 

あんたは何も知らない。そして私も…

私たちは

様々なことを学んで、

学んだ知識を使って色々なことを考えます。

 

時にはその考えを他人と話しあって、

自分の考えを深めることもあれば、

優劣や善悪を決めようとすることもありますね。

 

 

考える時、他人と話し合う時に

肝に銘じておくべきことがあります。

 

それは

 

"あなたは(わたしは)わかっていない"

 

ということです。

 

私たちが考える時、話し合う時は

なんらかの答えを求めているものです。

 

ですが、そのほとんどは算数の問題と違って

無数の答えが用意されています。

 

自分の信じる意見を固持することも

それはそれで素晴らしいことですが、

 

そもそも唯一の答えは存在するの?

 

あなたの考えは正しいの?

 

あなたの考えの材料となった知識は正しいの?

 

そもそもあなたはそんなに知っているの?

 

といったように、

時には自分を一旦否定して、

他の可能性に目を向けることも

必要なプロセスです。

 

私たちは

自分の考えた意見が可愛く見えて、

ついつい贔屓してしまう傾向があります。

 

ですから、一度本来の目的を見つめ直しましょう。

 

あなたの本当の目的は

 

"あなたにとって最善の答えを見つけること"であって

決して

"あなたの意見の素晴らしさを見せつける"ことや

"あなたの考えを徹底的に可愛がる"ことではないはずです。

 

まあ、あなたの目的がもし後半の2つだったら

私のこの文章はなんの役にも立てません…

 

しかし、もし答えを見つけることが目的なら

自分がどれほどわかっていないかを自覚することが

大切です。

 

もちろん、

自分を疑いすぎては一つも意見を出せませんから、

今の自分の能力で出せる答えを暫定的に用意しておくことは

悪いことではありません。

 

その自分の答えを溺愛しないことが

もっとも重要なポイントですね。

 

私も自分の意見に溺れないように

気をつけたいものです。